ガラテヤの信徒への手紙6章 互いに重荷を担う
「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。」ガラテヤ6:14
助産師永原のちょっと一言
キリスト者の自由とは互いに愛し合うことと5章で示されましたが、6章では、それを教会生活でどう実践するかが述べられています。「互いに重荷を担いなさい」と6章では勧めています。「互いに」ということは、「してもらい、する」「与えられ、与える」の関係ですが、先に与えるのはどちらなのか、してもお返しがなかったら損するだけじゃあないのか、そんな疑問がわいてきます。しかし大丈夫です。その関係の始まりは神から「与えられた」「愛された」ということ。すなわち、私たちが人を愛したり、愛を実践する動機は「神がこんな罪だらけ、失敗だらけ、欠けだらけの私を愛してくださった」ということがスタートなのですから。
聖書要約
信仰に基づいた助け合い
誰かが何かの過ちを犯したら謙遜な気持ちでその人を助け、正しい道に立ち返らせてあげること。また自分も過ちに陥ることがないように。そして「互いに重荷を担いなさい」それが律法を守ることになるのです。自分がそこまで謙遜にならなくていいと思う人は、自分を欺いているのです。しっかりと自分自身を見るなら、自分にとってはよくやれたと満足したとしても、決して他人と比較する事はなくなるでしょう。どんな人でも欠点はあります。そんな自分自身を受け入れることです。
神の言葉を教えてくれる人には報酬を払い、援助しなさい。神様を無視することは不可能です。自分の欲望のままに生きた人はそのような結果になるし、聖霊の導かれるままに生きた人は永遠の命を頂くことになります。全ての人に対して善を行う生活をしなさい。特にクリスチャン同士親切にしあいないさい。」と。
結びの言葉
「最後に自筆で書きます。」とパウロは自筆の言葉で手紙を締めくくります。それはあなたがたに割礼を強制した人たちは、迫害を恐れて、人に良く思われようとする人たちであり、彼ら自身が律法を守ってはいません。私たちの生き方は、主イエス以外に誇ることがあってはいけないのです。割礼の有無が問題なのではなく、私たちが新しい人に造りかえられているかということです。これからはこんな問題で論じ合うことがないように。私の身体には主イエスの十字架を伝えたことで、鞭打たれ、傷ついています。しかしそれは自分がイエスに属する証拠なのです。