イザヤ書53章 彼の受けた傷によって


「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ちのゆえに、私たちは癒やされた。」イザヤ書53:5

くぅ~マのちょっと一言
苦難の僕、イエスキリストを一番表しているのがこの53章です。キリストは苦難の道をただ服従と忍耐を持って歩まれました。十字架の死は人々には敗北の死に見えたでしょう。しかしそれは人類を罪から救う勝利の道だったのです。イザヤ書はイスラエルの救いのみならず、人類の救いの預言の書なのです。新約聖書はこの預言が成就したことがかかれています。そしてその救いの事実は過去のものではなく、十字架に架かられた主イエスは、復活され、今も復活の命を得て、私たちの罪の執り成しをしてくださっています。この私たちの罪から救う十字架と、復活の命を信じるのが私たちクリスチャンの信仰なのです。

聖書要約
このことを信じる者はなんと少ないことでしょう。神の目から見れば彼は不毛の地に芽吹いた若枝ですが、私たちの目には輝かしさもなく人から見捨てられるような者でした。彼はさげすまれ、のけものにされ、多くの痛みを負い、病を知っていました。私たちは彼にそっぽを向き、軽蔑し無視したのです。しかし彼が荷ったのは私の病、私の痛みでした。しかし私たちは彼が苦しんでいるのは、彼が神に背いたために神に懲らしめを受けているのだと思っていました。しかし彼が私たちの罪の身代わりとなって懲らしめを受けたために、私たちに平和が与えられ、傷が癒されたのです。
私たちは神の道を踏み外した、迷える羊の群れでした。その私たち一人一人の罪を神は彼に負わせたのです。彼は痛めつけられ、かがみこみましたが、一言も口にしませんでした。毛を刈られる羊のように、堵殺場に連れて行かれる子羊のように、口を開きませんでした。彼が死ぬのは自分たちの罪のためだと知っている者が当時いたでしょうか。彼は罪人として処刑され、不正で儲けた金持ちの入るように墓に葬られました。彼は何一つ悪いことはしませんでした。彼が苦しみを受けるのは神のご計画でした。彼が償いの捧げものとなったので、彼は子孫が永らえるのを見ることができます。苦しみの実りを見て彼は満足します。彼が多くの物の罪を背負うことによって、民は神の前に無罪とされました。それゆえ、神は彼に偉大な勝利者として栄誉を与えました。彼は罪人の一人として数えられたのですが、多くの人々の罪を神の前にとりなしたのです。