Ⅰコリント人への手紙9章 朽ちない冠を得るために

「彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」Ⅰコリント9:25

くぅ~ママのちょっと一言
パウロは12弟子ではなく、それどころか最初はキリスト教の迫害者でした。そのパウロが使徒職として働くことにコリントの信徒の中に批判している人がいたので、そのことに対してパウロは厳しくも愛を込めて弁明したのです。パウロはコリントでは自活し無報酬で宣教していたことが分かります。宣教の喜びがパウロにとっての報酬というのです。愛を込めてしたことをお金に換算されるのは何とも言えない気持ちになります。そんな仕事はいっぱいあると思います。愛を込めればこめるほどお金に換算されたくない、でも生活のために頂かなければならないというような…そんな時は、私は主が「よくやった」と喜んで下さっていることに心を向けると心がすっきりしてきます。パウロはこの福音(良い知らせ)を伝える為にはへりくだり、愛ををもって、徹底的にその人に合わせて宣べ伝えてきたと言います。人が導かれて、神から祝福されることがパウロの祝福であり、喜びだったのです。

聖書要約
グッド使徒の権利
私は福音の自由の中で生きる者、神の使者、復活のイエスに出会った者です。あなたがたが神を信じるようになったことこそ私が使徒である証拠です。
わたしに対して批判する人にはこう弁明します。私はあなたたちにもてなされる権利はないのですか。もし妻がいたとしたら(パウロは生涯独身)ケファ(ペテロ)たちのように夫婦で旅行してはいけないのですか。わたしとバルナバだけは生活のために働き続けなくてはいけないですか。そもそも自費を出して軍隊にいく兵士がいるでしょうか。丹精込めて作った作物を食べない農夫がいるでしょうか。羊の群れを飼っている者がその乳を飲まないでしょうか。律法にも「脱穀している牛には口輪をつけず、食べる自由を奪ってはいけない」と書いてあります。神は牛のことだけを心にかけておられるのではありません。クリスチャンのために働く人が、そのおかげで主の恵を受けている人から報酬をいただく事は当たり前です。わたしはあなたたちにみ言葉を伝えました。であるならば、その報酬として食べ物や着物を頂くことは行き過ぎでしょうか。あなた方はみ言葉を伝えてくれた他の人には報酬を提供しています。それは当然のことです。すると、なおさら私はそれらのものを要求する権利があります。しかしわたしはこの権利をあなた方に一度も要求したことがありません。自分で働き、援助は受けなかったのです。神殿で働く者は主の捧げものの分け前を頂くように、主の福音を知らせた者は、福音を聞いて信じるようになった者に生活を支えてもらうべきなのです。しかしそれをしなかったのです。無報酬であなたがたに良い知らせを伝えることの喜びを失うくらいなら餓死した方がましです。
神が私を選び出して、この任務に就けてくださったのですから、良い知らせを宣べ伝得ることの特別の喜びが私の報酬です。また誰にも気がねなしに福音を伝えることができます。一人でも多くの人を福音に導くためにすべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のように振る舞い、異教徒にもそのように振る舞い、弱い人には弱い人のように振る舞いました。皆が福音にあずかることができるためです。競技場で優勝する者のように、熱心に主に従いなさい。主から朽ちない冠を頂くために、わき目もふらず、全速力で走りなさいと。やみくもに走ったり、空に向かってボクシングをしたりするのではなく、自分の体を自制して主に従います。他の人に宣教しておきながら、自分が失格者にならないように私も励みます。