Ⅱコリント人への手紙11章 弱さを誇る
「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」Ⅱコリント11:30
助産師永原のちょっと一言
パウロはコリントの教会の人々に愛を持って、熱心に主の言葉を伝えてきたのに、エルサレムから来た偽使徒達のために信仰がゆがめられていることを憂い、愚か者のように話すのを我慢して聞いてくださいと話を進めます。またパウロは誇るようなことはしたくないと言いながら、言った言葉は輝かしい勝利の出来事ではなく、苦難の経験であり、パウロの弱さを表したものでした。最後の例話はパウロが使徒となっての初めての迫害の様子です。弱さは本来うれしいことではありません。しかしパウロは弱さを誇ったのです。全てご存知の主はそんな弱さの中に働いてくださることを伝えたかったのでしょう。その事は次の章でもっと詳しく出てきます。星野富弘さんの詩を思い出します。
よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせに近いような気がする
強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 真実に近いような気がする
しあわせが集まったよりも ふしあわせが集まった方が 愛に近いような気がする
聖書要約
偽使徒たち
わたしが、愚か者のように話すのを我慢して聞いてください。私はあなた方に、あたかも夫に愛を誓う花嫁のように、ただキリストだけをひたむきに愛するように勧めたのに、エバがサタンに誘惑されたように、あなた方は偽使徒によって伝えられた、違う教え、違う聖霊、違う救いを信じてしまいました。
私は「大使徒」と自分で言っているような人たちに、決して引けはとりません。もし私があなた方から報酬も受けずに、自分を低くしてあなたがたに接したことによって、私に対する評価が低くなったのであれば残念なことです。私はあなたがたに負担をかけないように、色々な手段を使ってきました。マケドニア州から来た兄弟がわたしの必要を満たしてくれたこともありました。報酬を受けなかったのは、あなた方を愛していればこそです。それは神がよくご存知です。そしてこれからもそうするつもりです。それは偽使徒がこれ以上誇れなくするためです。彼らは人をだまして、キリストの使徒になりすましています。サタンでさえ天使に変装することが出来るのですから、サタンの手下どもが偽使徒になるくらいわけないことです。しかしその最後は明らかな違いがあります。」
使途としてのパウロの労苦
愚か者と同じように話すのは意に反することですが、あなたがたにわかってもらう為にあえて話します。あなた達はあの偽使徒たちにだまされていると言うのに、よくにこにことし、また威張られても、殴られてもよく平気でおれますね。私は弱すぎるたのでしょうか。彼らが誇るような事は私にも誇れるようなことです。彼らは自分達はヘブル人だと自慢しているようですが、私もそうです。神の選びの民イスラエル人だというなら私もそうです。アブラハムの子孫だと言うなら私もそうです。キリストに仕えるものというなら、私はもっともっとキリストに仕えてきました。彼らの比較になりません。その苦労、投獄、鞭打ち、石打ち、難船、漂流、川の反乱、盗賊に遭う、同胞や外国人からの迫害、暴徒に襲われたり、荒野や海で一命を取り留めたこともありました。クリスチャンと自称する人に苦しめられたり、疲れ果て、眠れない夜もありました。飢え渇きはしばしばです。寒さに凍えそうなこともあります。こんなことの他に、諸教会の問題があります。間違った道に進む人たちを見て悲しまないわけにはいきません。傷つけられている人を見て痛まないではおれません。もし誇る必要があるなら、わたしはむしろ自分の弱さを誇ります。たとえば、わたしはダマスコで捉えられようとした時、駕籠で釣り降ろされて命からがら逃げるようなこともあったのです。