フィリピの信徒への手紙3章 国籍は天国にある

兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、」ピリピ人への手紙3:13

くぅ~ママのちょっと一言
パウロは「主において喜びなさい」と述べた後、「犬どもに警戒しない」と言います。それは律法によって救われると思っている人々のことを指しています。パウロもかつてはそのように思っていましたが、イエス・キリストと出会ってからパウロの世界観、価値観が全く変わったと証します。そしてクリスチャンに与えられている終末的希望について語ります。それはわたしたちは肉体の死後、天に帰るということです。わたしたちの国籍は天国なのですから。
よく「もう少し若かったら」とか「もう一度やり直したい」という言葉を聞くことがありますが、私は一日たりとも戻りたいとは思いません。過去が完璧なのかと言われるとまったくそうではありませんし、消し去りたいような場面もあります。ただいつも一生懸命の毎日でした。だから一日でも後戻りはしたくないのです。一日の始まりには今日の私を主に委ねる祈りをささげ、一日の終わりには感謝の祈りをささげ、天国を目指してひたすら前進したいです。

聖書要約
キリストを信じるとは
主にある兄弟の皆さん、どんなことがあっても、主にあって喜びなさい。何度言っても煩わしいとは思いません。それはあなたがたにとっていいことです。それにしても救われる為には割礼が必要だと言っている犬ども(悪い連中)に警戒しない。割礼を受けさえすれば神の子になれるのではありません。霊を持って神を礼拝する者こそが神の子なのです。クリスチャンが誇れることはイエス・キリストがしてくださった救いのみ業だけです。自分で自分が救えるでしょうか。しかしもし律法を行うことによって救われると言うのであれば、私は律法については誰にもひけをとりません。わたしは生後8日目に割礼を受け、イスラエル人、ベニヤミン族の出身、生粋のヘブライ人です。またファリサイ派であり、教会の迫害者として律法には徹底的に従ってきました。しかし以前価値あるものを思っていたそれらのものをことごとく捨ててしまいました。主イエスを知っているという素晴らしいことに比べたら他のものは色あせて見えてくるのです。キリストへの信仰による義を知り、キリストを復活させた超自然的な力を体験すること、またキリスト共に苦しみ、復活の生き生きとした命に与るにはどんなこともいといません。
目標を目指して
私が既にそのような完全な人間というつもりはありません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がイエスキリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。もし何かの点でこの考えから外れていたら神が指摘してくださるでしょう。私に倣ってください。十字架に敵対している人が大勢ますが、その人たちの行く先は滅びです。しかし(主を信じる)わたしたちの本国は天にあります。キリストがそこからきてくださり、死ぬべき私たちの体をご自分と同じ栄光の体に変えてくださるのです。