ローマ人への手紙4章 アブラハムの信仰

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼のと認められた」ローマ4:3

くぅ~ママのちょっと一言
人が義とされるのは律法を守ることによってではなく、イエス キリストの十字架と復活を信じる信仰によるものであるという「信仰義認」の考えを表したパウロは4章でアブラハムの信仰について語ります。アブラハムに神が約束されたことは、まったく不可能と思われるようなことでした。しかしアブラハムが信じたので神はアブラハムを「よし」として祝福されました。現代の私たちにとっては「イエスの処女降誕など理解できない。十字架と復活など意味の分からない」ことかもしれませんが、それを「ただ信じなさい。」ということなのだと思うのです。見えないものを信じること、納得できないことを信じるからこそ信仰と言えるかもしれません。信じて生きるも人生、信じずに生きるのも人生。選択をそれぞれ一人ひとりに任されているのです。

聖書要約
グッドアブラハムの模範
信仰によって救われるという問題について、私たちの始祖アブラハムの信仰を通して考えてみましょう。彼が神に受け入れられたのは良いことをしたからでしょうか。もしそうなら、彼は自分のことを誇ったでしょう。しかし神の側から見ると、アブラハムには誇れる理由などありません。アブラハムは神を信じたから、神が彼を義と認めれらたのです。働いた時に得るのは報酬ですが、働かずに得るのは恵みです。ダビデも救われる値打ちのない罪人が罪のない者とされる幸いについて「罪をすっかり消し去られた者、主の罪を数えられない者は何と幸いでしょう」と語っています。ではこの幸いは割礼をうけた者に与えられるのでしょうか。割礼のない者にも与えられるのでしょうか。アブラハムは割礼を受ける前に信仰によって義とされました。義とされた印として割礼を受けたのです。彼は割礼を受けずに信じた者にとっても、割礼を受けてアブラハムに従う者にとっても私たちの父なのです。
グッド信仰による実現される約束
神はアブラハムに子孫に世界を継がせると約束されました。神の祝福の約束を受け継ぐのは律法を守る者ではなく、神を信じることによって義と認められた者です。律法は神の怒りを招くものです。すなわち律法によって人間の罪が明らかにされるだけです。神がアブラハムに与えられた祝福の約束はイエスキリストを信じる全ての者に与えられます。アブラハムは死者を復活させる神を信じました。神はあなたを多くの国民の父とすると定められました。しかしその時彼は100歳、妻のサラも子どもを宿せる体ではありませんでした、アブラハムは希望するすべもないような状態でしたが、なお神の言葉に望みをおき続けました。アブラハムの信仰は弱まることがなく、益々信仰は強まりました。そのこのように神の約束を信じ抜いたから、彼は義と認められたのです。それは私たちにも当てはめることができます。主イエスを死者の中から復活させられた方を信じることで私たちも義とされるのです。イエスは私たちの罪のために十字架にお架かりになり、私たちの罪のために死に渡されました。そして私たちが義とされるために復活されたのです。