ローマの信徒への手紙7章 罪の支配
「自分が望むこ自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。」ローマ7:15
くぅ~ママのちょっと一言
私たちを罪人としてあやつる糸は切られても、人間の内は罪の法則があるのです。善を行おうとしても行えない惨めな私たち…糸が切られて自由になっても、背中に背負った罪の重みで私たちは動けない状態でした。長く生きれば生きるほど益々、罪の上に罪が重なっていって、重みは増すばかりでしょう。その私の背中の重荷、罪を取り除いて、自分の背中に背負い、そのまま十字架に架かって、その罪を清算してくださった方がイエスキリストなのです。
聖書要約
結婚の比喩
キリストを信じている皆さん、律法は人が生きている間しか拘束力がないことを知らないのですか。結婚した女性は夫が生存中は律法によって夫に束縛されていますが、夫がこの世を去れば、自由です。夫が生存中に他の男性と結婚するのは姦淫罪ですが。夫がこの世を去れば自由に結婚することができます。それと同様に、かつてあなた方が律法を夫として従っていましたが、キリストを信じることによって、キリストと共に十字架で死んだのですから、律法との婚姻関係は解消されました。律法に対して死んだので、律法の拘束力はないのです。キリストの復活と共に新しい人となったのです。それは神のために実を結ぶようになるためです。私たちが肉の欲望に従って生きる時は死に至る実を結んでいましたが、しかしもう律法に支配されることはありません。そして文字に機械的に従う古い生き方(律法に従う生き方)ではなく、心から喜んで霊に従う新しい生き方をしましょう。
内在する罪の問題
では律法そのものが罪なのでしょうか。決してそうではありません。律法が悪いのではなく、律法があるから罪の自覚が生まれるのです。律法そのものが罪なのではなく、人間のうちに生きて働く罪が問題なのです。その罪は律法に背いている行為そのものです。私自身の内にある本質的な問題は「自分が望むことを実行せず、帰って憎んでいることをする…」という罪なのです。
この二人の自分は、一方では神の支配を喜んでいるのですが、一方では罪の法則のとりこになっています。なんとみじめな存在なのでしょうか。
死に定められたこの体を救ってくださるのは、主イエスキリストの他におられません。