ピリピ人への手紙1章 パウロの死生観

「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」ピリピ人への手紙1:21

助産師永原のちょっと一言
ピリピの教会はパウロが第2回目の伝道旅行の時にできた教会でヨーロッパでは最初の教会です。ローマの殖民都市として栄えた町です。パウロが獄中でテモテが協力して執筆しました。エペソの投獄の時かローマの投獄のときかははっきりしていないとのことですが、おそらくローマである可能性のほうが大きいようです。執筆の目的はピリピの教会からの贈り物へのお礼と教会で起っている幾つかの小さな問題に対する指示を伝えるということです。この手紙の特徴は「喜び」ということです。命が危険にさらされている中でもパウロは喜びの手紙を書くことができたのです。
またパウロは死刑の可能性を前にして、自らの死生観をはっきりと述べています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と。
私にとっても死は生の延長線上であり、むしろ、天国は希望であり、喜びです。しかし実際その時がきたら、愛する娘達や親しい人たちとの別れは悲しいですし、やり残した仕事への未練などもあるかもしれません。でもそれをも主に委ねて、「先に行っているから」と意気揚々と天国に向いたいと思っています。しかしパウロの信仰のごとく、この世での使命があるなら、それをしっかりと果たしたいと思うのです。できる事はすぐに始めること!いつまでも人生の持ち時間があるわけではないのですから。

聖書要約
挨拶
キリストのしもべであるパウロとテモテからピリピにいるクリスチャンの皆さんへ。神の祝福が皆さんの上にありますように。
ピリピの信徒たちのための祈り
ピリピの教会の人たちが最初に聞いた福音の恵を、今も信仰によって確信していることを思い起こすたびに、神に感謝し喜びの祈りを捧げています。福音を伝えたのは私ではなく神なので、その神はイエスキリストが来られるその時(再臨)まで、あなた方の信仰を成長させ完成させてくださいます。わたしにとってあなた方は特別な存在です。わたしが獄中にいる時も、自由の身で宣教している時もあなた方はわたしと共に神からの祝福を頂いているのです。わたしはあなた方についてこう祈っています。「知る力と見抜く力を身につけて、人を愛する力が満ち溢れますように。善悪を見分ける力が備わり、だれからも非難されることがなく、益々祝されて、神の栄光と誉れをたたえることができますように」と。
わたしにとって、生きるとはキリストを生きること
ここでわたしの身に起っていることは全てキリストについての良い知らせを伝える為に大変役立っています。私の様子を見て、多くのクリスチャンは投獄をも恐れなくなりました。中には自分の党派心や名声のために伝道しており、その成果を挙げることによって、私にねたませようとする者もいますが、どのような動機からでも福音が述べ伝えられる事は私の喜びです。「生きるにしても、死ぬにしても、キリストの素晴らしさを身をもって表したいと思っています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」この世を去って、キリストと共にいたいという思いがありますが、私にはまだ生きる使命があるのです。あなた方はクリスチャンとしてふさわしい生活を送りなさい。もう一度会えるにしても、会いえないにしてもあなた方について、いつでも嬉しい知らせを聞くことが出来るでしょうから。福音を宣べ伝えるという一つの目標に向って共に歩んでいきましょう。その反対者には滅びますが、あなた方には永遠のいのちが約束されているのです。あなた方はキリストを信じるだけではなく、キリストのために苦しむことも特権として与えられています。私の信仰の戦いをあなた方は知っているということは、すなわち、共に戦っているのと同じことなのです。