ヤコブへの手紙2章 行いを伴なう信仰

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。」ヤコブ2:14

助産師永原のちょっと一言
「人は行いによって義と認められる」と書かれているのですが、文字通りの理解ではなく、行間を読まなければならないと思います。「行い」→「義」ではなく「信仰」→「行い」→「義」という風に。「信仰」→「義」はもちろんなのですが、神への信仰があれば、神が求められていることを行うことは当然であり、自然なことでしょう。「行い」がないというのは信仰が本物かどうかと問われますよと、著者は語ります。もちろん寝たきりになったりして何も出来なくても、信仰があれば義とされるのが、聖書の恵の世界。これが福音です。行いがないからと言って裁かれる事はないのです。

聖書要約
人を分け隔てしてはならない

キリストを信じながら、人をえこひいきして、金持ちか貧しいかによって態度を変えるようであってはいけません。神は貧しい人には豊かな信仰を持たせるようにしてくださいました。天国とはそのようなところです。反対にあなた方の周りにいるお金持ちの多くは、あなた方をひどい目に合わせ、裁判所に訴え、キリストをあざ笑うではありませんか。貧しいからと言って見下げるようなことがあってはいけません。それは「隣人を自分のように愛しなさい」という神の言葉を守っていないことになるのです。
また律法を全部守ったといいながら一点でも守らなかったら、全部守らないのと同じです。いずれ自由をもたらす律法すなわち新しい福音のもとで、私達は裁きを受けます。思いやりのない人は裁かれます。しかし神は思いやりのある人を憐れんでくださいます。
行いを欠く信仰は死んだもの
信仰があるといいながら行いが伴わなければ、どのように信仰が実証されるでしょう。今日の食べものにもこと欠いている人に対して言葉だけで何の助けもしないなら、それは信仰が死んでいます。信仰を実証するのは行いなのです。「神は唯一だ」と言うだけなら容易いです。悪霊もそう信じて、恐れています。
行いの伴わない信仰は役に立ちません。信仰の父といわれたアブラハムもイサクをささげました。アブラハムの信仰により行うことによって信仰が完成したのです。人は行いによって義とされるのです。ヨシュア記のイスラエルの偵察隊を助けたラハブもその行いによって義と認められました。行いのない信仰は死んだようなものです。