25年前、私はマナ助産院で永原さんに取り上げてもらいました。

2021.10.30  14:21  2586g 47㎝ 37w3d 男の子

 25年前、私はマナ助産院で永原さんに取り上げてもらいました。それから妹1人、弟2人もマナさんで産まれ、私も立ち会いを経験してきました。幼いながらに命が誕生する経験をして、将来は”助産師さんになる!!”と言っていました。看護大学に入学して、成人式の日は振り袖を着て永原さんに会いに来たのを覚えています。そんな私も今では看護師として働いています。

 妊娠が分かったとき、どこで産むか迷うことなくマナさん!っと思っていました。永原さんに健診で久しぶりに会い、とても喜んで下さったのを今でも覚えています。妊娠中期頃までは特に経過も問題ありませんでした。しかし、26w頃から子宮頚管長が正常よりも短いと指摘され、張り止めの内服薬をのみはじめました。初産で、お腹の張りがなにかもよく分からず、不安に思いながらも仕事に行くしかありませんでした。そして9/4の連携病院での健診の際、頸管長が8㎜まで短縮、「もう赤ちゃんの頭が出口まで下りてきてる!」と先生がバタバタと引きつぎやらしてる間、私は車イスに乗せられ、「今からNICUがある大学病院へ搬送します。28wではここでも対応できません」と言われ、言葉の意味は理解できていましたが、頭の中ではパニックでした。それからすぐ点滴、モニターをつけられ、不安が赤ちゃんにも伝わったのか、とても頻回なお腹の張りがありました。人生初めても救急車、これからどうなるんだろう、不安しかありませんでした。入院してしばらくすると、「こんなはずじゃなかったのに」と自分の思い描いていた妊婦生活とのちがいと何よりも赤ちゃんが今産まれたら生きていけるの?という不安で数月は涙が止まりませんでした。先生や助産師さんと、まずは32週、次は34週、その次は36週と少しずつ目標を決めて赤ちゃんが少しでも長くお腹にいれるようにがんばろうと言っていました。24時間持続の張り止めの点滴と、風呂とトイレ以外はベッド上での安静、コロナ禍で面会もできず、毎日気が遠くなる思いでした。それでも赤ちゃんに思いは通じていたのか、34wまでもち、大学病院からは退院許可がでました。次は36wと思って自宅でも安静生活をつづけていました。そしていよいよ36w(臨月!)になり、連携病院の先生からも赤ちゃんは十分育ってるからいつ産まれても大丈夫よと言われました。しかし、ここまでもったなら、やっぱりマナさんで産みたいという気持ちがあり、37wになるのをまつばかりでした。そして37w1dマナさんでの健診に来ることができ、まだ産んでいないのに達成感がとても強かったです。すると、なんと、その日の22:00頃に茶色のおりものと頻回なお腹の張り、23:30には薄ピンクのおりものがあり、「これまさかおしるし?!」と驚いたのを覚えています。これは数日で産まれる?!とソワソワしていると次の日には10分間隔の陣痛がはいまっていました。5分をきってくると、徐々に痛みもつよくなってきて、マナさんに着いたときにはつらかったのを覚えています。初めてのお産は想像の100倍つらくて痛くて、けど、ずっと立ち会ってくれていた夫や、腰をさすって下さっていた助産師さんたちのおかげで何とかたえることができました。産まれる瞬間の永原さんの「赤ちゃんもう見えてるよ、もう会えるよ~」って言葉をきいて、本当にこれで会える!と思っていきんだら、小さい赤ちゃんがとても元気に泣いてくれました。今までの人生では感じたことのない感動で、夫が涙しているところをみて本当に産まれたんだと改めて実感しました。本当に幸せな瞬間でした。

 このコロナ禍で立ち合い出産ができ、私たち家族の一生の思い出になりました。入院中、分からないこと丁寧に教えて下さり、毎回おいしい食事を出して下さり本当にお世話になりました。ありがとうございました。