ヘブル人への手紙12章 イエスを見つめて走り続ける

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」ヘブル人への手紙12:1

助産師永原のちょっと一言
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(新共同訳)ヘブル人への手紙の中には信仰を支えるみことばが沢山ありますが、この言葉もその一つです。一点イエスを見つめながら、自分に与えられているコース(人生)を走りぬきたいと思います。周りには信仰の先輩方が応援しているというのです。信仰の道程は一人ではないのです。あまりの人生の辛さに心細くなるときもありますが、トラックを走る選手を声援するような、私に向けられた応援の声を聞きながら、私達の指導者、教師であるイエスを一点目標に定めて、走り続けたいと思います。

聖書要約

主による鍛錬
数え切れないほどの信仰の証人たちが競技場の周りで私たちの競技を応援してくれています。スピード落とさせたり、後ろへ引き戻そうとしたり、躓かせようとする罪を振り捨てて、わたしたちの指導者、教師であるイエスを一点目標に定めて走りぬこうではありませんか。このイエスは十字架の死に耐え、神の名誉の席につかれました。罪人のひどい仕打ちにいつも耐えられたイエスのことをいつも思っていたら、気力を失ったり、疲れ果ててしまうことはありません。あなた方の苦しみは、血を流すほどの経験ではないのですから…天の父なる神はわたしたちを子どものように愛すればこそ厳しく育てます。ましてや天の父は永遠の命を得させようとして懲らしめを与えられることがあります。それは本当の子どもとされている証拠です。喜んで神のこの訓練を受けるべきです。
キリスト者にふさわしい生活の勧告
戦いをやめて清い生活を送りなさい。そうでないと神を見る事はできません。苦々しい思いの根からは悩みの花が咲き、皆に影響を与えますから。またエソウは長子の権利を軽く見たため、権利を奪われてしまいました。後悔しましたが、奪われた権利を戻す事はできませんでした(創世記26)。あなた方も気をつけなさい。
モーセが十戒を授けられた時、黒い雲、暗闇、暴風、ラッパの音…のように神の声がとどろきました。聞いたものは皆恐怖におののきました。この神の山、シナイ山は、たとえ動物でも近づいたら殺さなければならないといわれ、民はこの神の命令に耐えることが出来ないほどでした。しかしわたしたちはシナイ山に近づいていいのです。生ける神の都、天のエルサレム、天使の集まり、天に登録されている人たちの教会に近づいているのです。復讐を叫ぶアベル(創世記4)の血でなく、罪を赦す恵の血に近づいているのです。神を拒んではいけません。イスラエルの人々もモーセに従うことを拒んだ時、裁きは決定的なものとなりました。シナイ山から語られて神は血を揺さぶられましたが、今度は地と天を揺さぶると言われます。そして揺さぶられても動じない者だけを残そうとされています。私達は何ものにも滅ぼされない御国を与えられているのですから、感謝して神に従い、神に喜ばれる生活をしようではないですか。神は焼き尽くされる火です。しかしクリスチャンはその火にも焼かれない者の中に加えられているのです。