Ⅰヨハネの手紙1章 主にある交わり

「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。」Ⅰヨハネ1:3

助産師永原のちょっと一言
ヨハネの手紙の著者は使徒ヨハネにほぼ間違いはないということです。そして書かれた年代は1世紀末、ヨハネの晩年にエフェソで書いたとされています。時代背景としては時代の移り変わりと共に、クリスチャン2世の時代となり、初期の熱情は影を潜めていたとのことです。また迫害を思わせる記載もなく、問題となっている事は信仰の内面的なことでした。
手紙は挨拶から始まるのが常ですが、この手紙は挨拶の文がありません。しかしどのような立場の者が書いているのかがはっきり書かれています。それは「私は、この世界が創られる前から存在しておられるキリストをこの目で見、言葉をこの耳で聞き、その体をこの手で触った者です」と。
3節にある「交わり」とはギリシャ語ではコイノーニアという言葉が使われています。キリスト教的な言葉で共有の者を持つ、分かち合うという意味だそうです。クリスチャンは永遠のいのちを共有しています。そして父なる神への信仰を共有します。ですからクリスチャンの交わりには利害関係は全くありません。それぞれが主を見上げることによってつながっているのです。主から頂く愛のエネルギーを受けてつながり続ける関係なのだと思います。

聖書要約
命の言
私は、この世界が創られる前から存在しておられるキリストをこの目で見、言葉をこの耳で聞き、その体をこの手で触った者です。そのキリストとは神の言葉そのものです。キリストは神と共におられましたが、神はこの方を私達に現してくださいました。私がこの目で見、この耳で聞いた、その方のことお伝えするのです。それはあなたがも私たち同様、父なる神やその一人子イエスキリストと交流を持つということです。それによって共に喜びに満ち溢れる為なのです。
神は光
わたしがイエスから聞いたことをあなた方に伝えます。それは神は光だということです。暗いところはありません。神さまと交流があると言いながら、霊的な闇、罪を犯すなら、それはうそをついていることになります。私達も光の中を歩むような生活をするなら、神との素晴らしい交流を持つことができるばかりか、罪を告白することによって、イエスキリストの十字架の贖いによってその罪は赦されるのです。もし「私には罪がない」というのであれば、それは自分だけでなく、神をも欺いていることになります。なぜなら神が「人間は罪を犯した」とはっきりと言っておられるからです。