ヨシュア記5章 「マナが絶えるとき」

マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。」ヨシュア記5:12

くぅ~ママのちょっと一言
短い章ですが、心打たれる箇所が3箇所もあります。

一つは聖なる戦いの前に割礼を施したと言う箇所です。割礼とは包皮(陰茎の皮膚)の先を火打石で作った小刀で切り落とし、神の民である事を証するものでした。新約に生きる私たちは実際、割礼をする必要はありません。しかし心の割礼と言う言葉が聖書の中にも出てきますが、かたくなな心を神に明け渡し、「私は主のものです」と言い表す事は私たちの信仰生活の中で大切なことだと思います。
二つめは40年間荒野で降りつついたマナは土地の産物を食べることが出来るようになったその日から降ることはありませんでした。神は私たちの必要をご存知で、必要なものを必要な時に備えてくださいます。私の人生においてもそのとおりの経験をしました。
三つめは「あなたの立っている場所は聖なる所、履物を脱げ」と言うところです。このシーンは私の大好きな聖書のシーンの一つです。モーセもホレブの山で同じ経験をしましたが、今日私が立っている場所に対しても同様の神のみ声を聞きたいと思うのです。

聖書要約
契約のしるし
ヨルダン川の西にいるアモリ人と、沿岸地方にいるカナン人の王たちは皆、神がヨルダン川の水を干上がらせて、イスラエルの民を渡らせたことを知って、意気消沈して戦う気力も失せてしまいました。
その時、神はヨシュアにイスラエルの民に割礼を施すようにお命じになりました。カナンに入ろうとしているイスラエルの民は全員荒野で生まれた者達で、割礼をしていませんでした。エジプトを出たときに兵役につける成人男子は割礼をしていましたが、その者たちは皆荒野で死んでしまいました。神に対して罪を犯したので、カナンの地に入ることを許されなかったのです。民は全員、割礼を受けた傷が癒えるまでそこに留まりました。神はヨシュアに「今日、わたしはあなたたちからエジプトで奴隷のように扱われた恥辱を取り除いた」と言われ、その場所をギルガル(転がすの意)と呼ばれました。
その月の14日の夕方から民は過越祭を祝い、その翌日土地の産物で酵母を入れないパンを作って食べました。土地の産物を食べたその日以来マナは降ることはありませんでした。
ヨシュアがエリコのそばにいた時、抜き身の剣を持った一人の男がこちらに向かって立っているのが見えました。ヨシュアが「敵か、味方か」と問うと、男は「主の将軍だ。今着いたところだ」と言ったので、ヨシュアはひれ伏します。将軍は「履物を脱げ、あなたの立っている場所は聖なる所である」と言ったので、ヨシュアはそのとおりにしました。