コヘレトの言葉2章 神が善人と認めた人は
「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、」伝道者の書2:26
くぅ~ママのちょっと一言
新約聖書に「栄華を極めたソロモン」という主イエスのことばがありますが、ぜいたくの極みを経験したソロモンは物質的な豊かさがいかに空しいかを語っています。そしていろいろ経験し、考えた結果、自分の労苦によって得たものを飲み食いする堅実な生活の中にこそある人間の幸福を見出だしますが、それは神に従って生きる者に与えられるとものであると語ります。
聖書要約
そこで私は「思い存分愉快に楽しもう」とひそかに思いました。しかしそれも空しいことでした。いつも笑って暮らしたらどうかと思ったのですが、頭がおかしくなったのかと思われてしまいます。私は一生の内で何をしたら幸せになれるのか、その知恵を探求し続ける一方で、色々なことをやってみました。
酒に身を任せたり、バカになりきろうとしたり、大規模な事業をしようとも考えました。邸宅を建て、庭園や素晴らしい果樹園を作ったり、男女の奴隷を買い、家畜の群れ、多くの金銀を得ました。また芸術活動として歌い手を揃えたり、また多くの側女を置きました。かつてだれもやらなかったようなあらゆることをやってみました。私の知恵はそれらの物の価値を知りたいと思ったのです。ほしい物はなんでも手に入れました。辛い仕事にも大きな喜びがあることも知りました。この喜びこそ労苦の報酬であることも知りました。しかししてきたことを振り返っても どれもこれも空しいのです。これこそ価値あるものと言えるものはないのです。
次に私は知恵と愚かさの価値を比べることにしました。確かにひかりが暗闇より良いように、知恵も愚かさより価値があります。知恵ある者は正しく判断しますが、愚かな者は先のことがわかりません。ところが、私は気がついたのです。知恵ある人も愚かな人にも共通点があることを。それはひとしく死を迎えるということです。そしてすっかり忘れさられるのも変わりがありません。
一生かけて築き上げたものも、自分の手元には残りません。後を継ぐ者が賢者なのか愚者なのかわからないのです。そう考えると私が労苦することも空しいことです。私が労苦したことを、労苦しなかった者に与えなければならないのですから。
そして人間にとって一番の生きがいは食べることと労することで満足感をえることではないかと判断したのです。しかもその満足感は神さまから頂けることに気がついたのです。なぜなら、神は従う者に知恵と知識と喜びをお与えになるからです。悪人には財産を集めても取り上げられます。これもまた空しい生き方の一例でしょう。