イザヤ書3章 最後の日に
「その日、主はもろもろの飾りを除かれる。」イザヤ書3:18
くぅ~ママのちょっと一言
神の最後の審判の混乱の様子が書かれています。これはイザヤの初期の預言ですので、ユダが繁栄に酔い、享楽にふけっていた時に、ユダの将来の悲惨を預言したということになります。民の中で耳を貸したものがどれほどいたでしょうか。
人間は状況が良いと傲慢になり、自分が何者かのように思い、神を忘れます。逆に状況が思わしくないと悲嘆にくれ神にすがります。このように大きく揺れるのが人間かもしれません。
しかし神は傲慢を打ち、悲嘆にくれる者には希望を与えてくださいます。大揺れするこの世にあって、クリスチャンはみ言葉を伝えることによって揺れ幅を修正する役割が与えられているのだと思います。この預言者イザヤのように。
聖書要約
エルサレムとユダの審判
万軍の主はパンや水の供給を絶ち、指導者たちをユダから取り去られます。ユダを治める王はまるで子供のように気ままな政治をするため、無政府のような状態となり、政治社会の混乱をきたします。争いが絶えず、権威に盾をつき、身分の低い者が高貴な者をあざ笑うようになります。少しでも他よりも勝っていると思われるとなると指導者にされてしまうほど、不安定な社会となってしまうのです。
なぜユダがそのようになってしまうのでしょうか。それは神に逆らい、ソドムの町より悪い町であると公言してはばからず、もう手の施しようがなくなってしまい自ら滅亡の運命を決めてしまったのです。
しかし神に従う人は何もかもうまくいきます。神に逆らう者は神の裁きがあるのです。
女のようにか弱く、幼子のように世間知らずの者が王のまねごとをして、民を惑わせているのです。そんな指導者は民を滅びへと導くだけです。神はそのような指導者を打つために立ち上がられます。
また神はおごり高ぶるユダの女性を裁かれます。美しく着飾った数々のものを奪い取られ、その美しさは恥に変わります。夫まで戦場で死に、何もかもなくなって地に伏すようになるでしょう。