イザヤ書66章 主の愛はとこしえに


「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める。」イザヤ書66:13

くぅ~マのちょっと一言
この章でイザヤ書66章が終わります。詩篇150編についで多い章です。その最後に神が約束される新天新地の到来の希望が素晴らしい表現で書かれています。しかし締めくくりの言葉は裁きにあって滅ぼされる人々の悲惨な姿です。希望に膨らんだ気持ちが沈んでしまうように思いますが、この預言はこの事が起こるずーっと前、バビロンが台頭するさらに前の、アッシリアの勢力にイスラエルはおびえていた頃の民に語られたことです。神から離れることがないように滅びの現実を強調してイザヤ書は閉じられる必要があったのでしょう。私たちも希望のメッセージに耳を傾けるのは嬉しいことですが、神の裁きの前に立たされる時が来ることを忘れてはいけないのだと思います。「あなたは何を大切にして生きてきたのですか」と。

聖書要約
天は私の王座、地は私の足台です。天と地が私の住まいです。そのような神殿をあなたたちが建てることが出来るでしょうか。私が顧みるのは謙遜になって自分の罪を悔い、私の言葉に畏れおののく者です。
しかし形ばかりの捧げものをする人たちの祈りには私は耳を貸しません。
神を畏れる者はみ言葉を聞きなさい。神に忠実に歩んでいる者に「神を信じてせいぜい幸せに暮らすんだな」とあざける者に神は報いを返されます。
神殿から声がします。神殿から聞こえてくる物音は神が敵に報復している音です。神は一つの国家であるイスラエルをたった一日で産み落とされます。エルサレムを愛してきた者たちよ、喜び踊りなさい。崩壊したエルサレムのために嘆いていた人たちよ、エルサレムの乳房から乳を飲みなさい。平和が大河のように流れてきます。幼児が母に慰められるように、エルサレムはあなたたちを慰めます。世界中の人たちが神の民に行われる主の恵み深い手の業と、敵に向けられた主の憤りを見ます。
神は裁きのために火に包まれ戦車に乗って来られます。庭に隠している偶像を拝み、豚やねずみなど禁じられている食べ物を食べる者は悲惨な最期を遂げます。
私は彼らがどのようなことを考えているのかすべて分かります。ですから、世界中の人をエルサレムに集め、私の栄光を見せます。そして私の栄光を宣べ伝えるために残った者をスペイン、アフリカの北部、トルコ、ギリシャに遣わします。私のことを聞いたこともないような国です。彼らは神の同胞をエルサレムに聖なる捧げもののようにして連れてきます。こうして帰ってきたものから神に仕える者を選び出します。
私の造る新しい天と地がとこしえに存続しますように。そしてあなた方がいつまでも私の民として礼拝を捧げるように。しかし外に出ると神に背いたものの死体を見るでしょう。