エレミヤ書8章 いやしを望んでも


「平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。」エレミヤ書8:15

くぅ~ママのちょっと一言
1節の骨の部分は死後にも屈辱を受けることが表現されています。実のないブドウやイチジクはユダの民を表しています。ギレアドはヨルダン川の東、乳香の産地。乳香は傷薬に使われます。癒されることのないユダを表しているのでしょう。ユダの人たちはようやく絶望的な状態であることに気づくのです。
痛みは傷を治すために大切な役割を果たします。感覚がマヒすると痛みも感じなくなり、傷を深くすることになってしまいます。常に神の言葉に触れて、悪の感覚がマヒしないようにしなければなりません。それが取り返しのつかない傷にしない方法だと思います。

聖書要約
神はこう宣言されます。「ユダの歴代の指導者、祭司、高官、預言者の墓から骨が掘り出され、彼らが拝した太陽や月のもとにさらされる。そして今生き残っているものは捕囚の民となるより、死を望むようになる。」と。
民の背信
倒れて起き上がらない者があろうか。離れて立ち返らない者があろうか。しかし私の民は自分の悪を悔いることはない。コウノトリは季節を知っている。山鳩もつばめも渡る時を知っている。しかし私の民は神の教えを知ろうとしない。
律法を持っているからと言って賢者と言うのは間違っている。律法を間違って解釈して民に教えたので、彼らは遠い国に追いやられる。彼らは自分の利益だけを考えて生きてきた。だから私は彼らの国を他の国に征服させる。彼らは平和がないのに、すべてはうまくいっていると思い込んでいる。民が痛手を負っているのに、効き目のない薬を塗り、偶像を拝むことを悪いこととはまったく思っていない。ブドウもイチジクもならず、葉はしおれてしまったのです。
敵の攻撃
その時民は言うでしょう「ここに座っているより、城塞に逃れよう。神が我々を裁かれる。我々が神に対して罪を犯したからだ。今や平和を望んでも平和はない。あるのは恐怖のみ。ダンから敵の軍馬のいななぎが聞こえる。彼らは都を破壊する。私は余りの悲しみにどうしたらいいか分からない。国中に民の嘆きが響き渡る。「神はどこにおられるのですか。私たちを見捨てられるのですか」と。逆に神はお聞きになるでしょう「なぜあなたたちは私を怒らせたのですか」と。刈り入れは終わっても救われることはありません。民の傷は癒えることはありません。ギルアドには薬はないのでしょうか、医師はいないのでしょうか。私の目には涙が枯れることはありません。