マタイによる福音書2章 人生の主権は主の手に


「そのを見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」マタイ2:10

くぅ~ママのちょっと一言
2章では救い主であるユダヤ人の王がお生まれになったことが、東方の学者に星を通して知らされます。幼子のいる家にとまった星を見て「喜びにあふれた」と書いてあります。原文はとてつもない大きな喜びという意味だそうです。学者達は救い主の誕生の喜びを「拝みに行く」という行動で表し、その喜びを自分達の財力をもって主に仕えることで表しました。
ヘロデは自分とは別の王の存在を脅威に感じイエスを亡き者にしようとします。
主イエスの誕生に対して自分がどう関わるかは様々だと思います。ヘロデのように脅威と感じて否定するのか、それとも学者のように大きな喜びとするのか、さらにマリアやヨセフのように謙虚にお従いしますとひざまずくのでしょうか。
主イエスの誕生を受け入れて人生を送ることがクリスチャンの歩みです。それは自分で生きるのではなく、私の中に働かれるイエス・キリストとともに生きるということです。それは新約聖書の多くを書いたパウロは「私たちは洗礼によってキリスト共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)と告白しています。 またマザーテレサは「私は神さまに握られている1本の鉛筆に過ぎない」と、自らをいい表しています。すなわち信仰とは「私の人生の主権を自分の手から神さまの手に手渡すこと」なのです。

聖書要約
占星術の学者たちが訪れる
イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。天文学者たちが東の国からはるばるやってきて尋ねました。「ユダヤの王としてお生まれになった方はどこにおられますか。私たちはその方の星を見たので拝みに来たのです」と。それを聞いたヘロデ王やエルサレムの人々は不安を抱きました。祭司長や律法学者に調べさせたところ、預言者ミカが「ベツレヘムで私たちの民の指導者が出る」と記していたのです。ヘロデ王は学者たちをひそかに呼んで「詳しいことが分かれば知らせてくれ。私も拝みに行くから」と言って送りだしました。学者たちは星が幼子のいる家に留まったのを見て大きな喜びにあふれました。彼らはひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬の贈り物を献げました。「ヘロデの所に行くな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って帰って行きました。
エジプトに避難する
彼らが帰った後、み使いがヨセフに現れて言いました。「ヘロデがこの子を殺そうとしています。エジプトに逃げなさい」と。ヨセフはその夜のうちに、マリヤと幼子を連れてエジプトに旅立ち、ヘロデが死ぬまでそこで留まりました。「私の子をエジプトから呼び出した」という預言者の言葉通りのことが起こったのです。
ヘロデ子どもを皆殺しにする
天文学者にだまされたことを知ったヘロデ王は怒り狂い、ベツレヘムとその周辺に住む2歳以下の男の子を一人残らず殺させました。これもエレミヤが預言した通りのことでした。
エジプトから帰国する
ヘロデが死ぬとエジプトのヨセフにみ使いが夢に現れて、イスラエルに帰るように言います。ヘロデの息子が王となっていたため、ユダや地方に行くことを避け、ガリラヤのナザレの町に住むことになりました。預言者が「彼はナザレの人と呼ばれる」と言った通りになったのです。