マルコによる福音書7章 心を開かれて主のみ声を聞く


「そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」とわれた。」マルコ7:34

くぅ~ママのちょっと一言
律法を中心とした言い伝えは世代を経ることに積重なり膨大なものになっていきました。イエスは、言い伝えを守ることが目的となってしまって、神の言葉である律法の本質の意味がなくなっていると非難されます。
24節からの異邦人の女性に対してイエスが言われたことは、「救いはまずユダヤ人から、そしてユダヤ人を通して異邦人に伝えられる」という旧約聖書(イザヤ46:9)に書かれていることの引用と考えられます。女性はイエスの言葉を認めたうえでさらにイエスに願い求めました。その女性の下向きな信仰にイエスは応えられます。
31節からのいやしの出来事はマルコによる福音書だけに書かれていることです。「エッファタ」はガリラヤ地方のユダヤ人の言葉、アラム語で、「開け」「解き放たれよ」と言う意味。すると耳が聞こえ、しゃべることが出来るようになりました。これも旧約聖書イザヤ書の「聞こえない人の耳が開く」の預言とおりです。
私も耳が開かれて、いろいろな束縛から解き放たれて、神の言葉を聞き取る耳になりたいと思います。

聖書要約
グッド昔の人の言い伝え
エルサレムから来ていたファリサイ派と律法学者など数人の宗教家たちがイエスに議論を吹きかけます。弟子達が食事の前に手を洗うという、昔の「言い伝え」を守っていないと言うのです。(衛生面から言っているのではなく、けがれをきよめるという儀式的な面としての手洗い)「昔の言い伝え」とはモーセが神から賜った律法を、人々がより守れるようにと考えられたしきたりのようなもので、昔から固く守っていたことが沢山ありました。しかしイエスは彼らに「イザヤが預言した『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている』と言った偽善者とはあなたたちのことです。あなたたちは神の教えを捨てて、人間の言い伝えを守っている。例えば、十戒ひとつである「父と母を敬え」という律法を、両親が困っていても『あなたに差し上げるものは神に差し上げました(コルパン)』言いば、両親をおろそかにしてもいいと教えています」と言われました。そして人々に「口から入るものは人を汚すことはない。人の中から出る者が人を汚すのです」と言われました。後で弟子たちがその意味を尋ねました。「食物は口から入って出るだけだが、人の心から出る「悪い思い」は人を汚し、神にふさわしくない者とする。」とイエスは教えられました。
グッドシリア フェニキアの女の信仰
イエスはティルス地方に内緒で行かれたのですが、人々に気づかれてしまいました。娘が汚れた霊に取りつかれた女性がイエスの所にやってきて娘の癒しを願います。この女性はユダヤ人から見れば軽蔑すべき外国人でした。イエスは「まず、子どもたちに十分食べさせてやらねばならない。子どもたちのパンを小犬にやってはいけない」とおっしゃいました。女性は「主よ、食卓の下の小犬でも子どものパンくずは頂きます」と答えます。イそれを聞き、エスはその娘を癒されました。
グッド耳が聞こえず舌の回らない人をいやす
イエスはティルス、シドン、デカポリスを経て、ガリラヤ湖にやって来られました。人々は耳が聞こえず、下が回らない人を連れて来て、その上に手を置いて下さるように願いました。イエスは天を仰いで、「エッファタ」(開け」と言われました。するとたちまち聞こえるようになり、話すことが出来るようになりました。イエスはこのことを口止めされましたが、人々は益々イエスのされた素晴らしいことを言い広めました。