ローマの信徒への手紙9章 選びの主権は神に

「行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、」ローマ9:12

くぅ~ママのちょっと一言
同胞の為ならキリストから引き離されてもいいというほど、イスラエルの民が滅びることをパウロは憂いました。もともとイスラエルは神に選ばれた民という霊的特質を持ち、多くの国民の父アブラハムを輩出し、キリストも肉においてはこの民から出たという歴史的な特質があります。神の選びの主権は自由なのです。
クリスチャンは神の子とされ、神の国に迎え入れられる特権をあたえられています。それは何か特別の資格があったからでも功績があったからでもなく、ただただ神の憐れみによるのです。資格もないのに選んで頂いたのですから、選んでくださった神のみ心に応えて生きていかねばならなりません。では選ばれなかった人はどうなるのでしょう。それはわたしたちの領域ではありません。9章に書かれているとおりです。ただ言えることは神の御心はすべての人が救われることだということです。

聖書要約
イスラエルの選び
これから語ることは真実であって、決してうそいつわりはありません。同胞のユダヤ人のみなさんが救われる為ならこの身はキリストから引き離されてもよいとさえ思っています。神はユダヤ人であるあなたたちに神の子としての身分を与えられました。契約の律法もキリストご自身もあなたたちの同胞としてお生まれになりました。このキリストが今や全てを支配しておられます。ところでユダヤ人に与えられた神の律法による約束は無効になってしまったわけではありません。そもそもユダヤ人として生まれた者が全て真の意味で神に選ばれた者とは言えないのです。
アブラハムには女奴隷から生まれたイシュマエルと正妻サラから生まれたイサクがいますが、イサクは神からの約束の子ですが、イシュマエルは人間的な手段で生まれた子です。また、そのイサクの妻リベカからは双子の兄弟が生まれますが、神はヤコブを選ばれました。なぜという疑問が沸き起こります。神に不義があるのでしょうか。決してそうではありません。なぜなら、神はだれにも束縛されず、憐れみたいと思うものを憐れみ、愛しみたいと思うものを愛するのです。これは神が絶対者であるということにほかありません。出エジプトの時にファラオの心をかたくなにされたのも神なのです。
神の怒りと憐れみ
あなた方は「人が悪を行ったとしても神がそのように定められたのだったら人間のせいではないではない」というかもしれません。しかし陶器師である神がお造りになった作品である私たちが「どうしてわたしをこのように造ったのか」とは言えません。人間は罪ゆえに完全に滅びるような怒りの器でしたが、主は寛大な心で耐え忍ばれ、憐れみの器として、神の栄光を満ち溢れさせてくださるのです。それはユダヤ人からだけでなく、異邦人に対しても期待しておられるのです。そのことをホセア書に書かれています。背信のイスラエルに対して神の絶対なる愛を。またイザヤ書から捕囚の歴史の中から、わずかな民を残され、救いを成就された神の愛が書かれています。
イスラエルと福音
イスラエルの民は民族特権や歴史的な特権を誇り、また律法を行いによって達成しようとしたため、イエスキリストの信じることによって救われると言う福音が理解できず、十字架につけてしまったのです。イザヤ書に預言されているように、つまづきの石につまづいたのです。