ローマ人への手紙10章 万人の救いのために

「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちのは」ローマ10:15

くぅ~ママのちょっと一言
9章ではイスラエルの民が「救いは行いによる」としたため、イエスの十字架による救いを信じることが出来なかったとつまづきの石について書かれていました。10章でパウロはさらにイスラエルの不信仰を指摘し、信仰よる救いを鮮明にします。
苦行、修行は人間の傲慢なのです。知恵や努力が人生を決定するものではないのです。人生の決め手は主に委ねること!なのです。もちろん何もしなくていいというわけではありません。自分に与えられた能力に従って精一杯生きていかなければならないと思います。しかし行く方向や結果を握っておられるのは神であると認識しておくことが主に委ねる生き方だと思います。それが平安な生き方であるし、行き着くところは「神様のふところ」なのではないでしょうか。

聖書要約
兄弟たち、私は同胞イスラエルがどれほど救われることを願っているでしょう。彼らが神に対して熱心なのは分かるが、正しい知識に基づくものではありません。それは、律法を与えられた民族という自らの正しさを主張するあまり、イエスキリストによる救いを謙虚に受け止めることが出来ないのです。イエスキリストは律法による神との契約(守れば救い)を終わらせる為に来られたのです。(信じる者全てに救い)
グッド万人の救い
律法を完全に守れたなら律法によって救われるでしょうが、実際不可能です。信仰によって救われるとは次のようなことです。それは自らの知恵や努力で天まで上ろう(救われよう)としてはいけないし、キリストを復活させることができるなどと考えるような思い上がりは禁物です。神に対して真実なあり方は、イエスが救い主であり、神がイエスを死から復活させられたと信じることであり、この告白によって救われるのです。そしてイスラエル人だけではなくすべての人がこの信仰告白によって救われます。「み言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と申命記の30章に書かれている通りです。
ところで、救われるには信じなけらばならない、信じるには聞かなけらばならない、聞くには宣べ伝える者がいなけらばなりません。イザヤ書には「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書かれている通りです。
福音はスラエルの民にも宣べ伝えられたのですから、聞いたはずです。しかし理解しませんでした。イザヤが預言したように 神の民とは考えられていなかった異邦人や無知と思われていた異教徒が救われたのです。しかしこの事は神が、神の民と誇っていたイスラエルの民に怒りを誘発させることによって、自らの不信仰を反省させ、奮起して神の本当の意味での救い、福音に預からせたたいという神の願いがあったからでした。「反抗する民に、一日中手を差し伸べた」というイザヤが述べている通りです。