ガラテヤの信徒への手紙2章 わたしの罪は十字架の上に

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ2:20

助産師永原のちょっと一言
この章の前半はエルサレム会議のことが書かれています。その後14年とは、パウロが1回目にエルサレムを訪れてから14年ということです。その間パウロは独自で異邦人伝道をしていましたが、その働きがこの会議で、エルサレムの使徒たちに確認されたのです。
エルサレム会議の後、アンティオキアで起った使徒間の衝突事件について書かれています。これも引き続き「割礼を受けていない者への福音」という大切なテーマを問題としています。
律法は私たちが幸せに生きるための戒めが書かれており、神が人類に与えてくださった大切な教えです。しかしそれを守れば救われると言うのであれば、人類は誰一人救われることはありません。長い歴史がそれを明らかにしています。神はそのような私たちに救いの道を与えてくださいました。それがイエスキリストの十字架と復活です。このことをただ信じることによって救われるのです。これが福音です。「ただ信じる」というのは、簡単なようで難しい。でも難しいようで簡単なことなこと、そんな気がします。

聖書要約
使徒たち、パウロを受け入れる。
(1回目にエルサレムを訪れてから)14年目のことです。わたしはバルナバとテトスと共に再びエルサレムに上りました。このエルサレム行きは神からの啓示によるもので、わたしがイスラエル人以外の異邦人に福音を伝えていることに対して正しく理解してもらい、正統性を認めてもらうためでした。彼らはそれを承認してくれました。そればかりか、異邦人のテストスに割礼を強制しなかったのです。それはユダヤ人の偽クリスチャンの中に、ユダヤ教の律法に従うことから解放されず、福音を混乱させているという問題があったのですが、それも必要ないことが確認されました。神が異邦人を導くためにわたしを遣わして下さったことを皆が認め、ペテロがユダヤ人に福音を伝えるために召されているのと同じように、わたしは異邦人に福音をつたえるという使命が与えられているとして、彼らの主だった人たちはわたしとバルナバに握手を求めたのでした。加えてまずしい人の施しを忘れないで欲しいという申し出がありましたが、そのことは私も熱心に努めてきたことでした。
パウロ、ペテロを非難する
ケファ(ペテロ)がアンティオケに来た時、わたしはケファを非難したことがありました。わたしたちが異邦人と食事を共にしていたところ、ケファはユダヤ人が来た途端、 食卓を離れてしまいました。割礼を受けていない者と食事をしていることをとやかく言われたくなかったのです。なんと同席したバルナバまでがそうしました。福音に生きている者であれば、割礼の有無は問題ではありません。律法から解放されているはずなのに、どうして律法的な考え方に支配されるのでしょうか。
すべての人は信仰によって義とされる
「律法を実行したら救われる」というのであれば誰一人救われる者はありません。ただキリストを信じる信仰によってのみ人は義とされ、救われるのです。律法をもう一度打ちたてるようなことがあれば、それは罪です。私たちは罪によって死ねべき存在ですが、キリストと共に十字架につけられたのです。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」もしまた律法を持ち出すようなことがあれば、キリストの死は無駄になってしまうではありませんか。