ガラテヤの信徒への手紙3章 まず、信仰ありき
「 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。」ガラテヤ3:24
助産師永原のちょっと一言
律法と福音、旧約と新約、呪いと祝福が旧約聖書に書かれた歴史上の出来事を通して、分かりやすく示された個所です。律法によって私たちがどう生きるべきかが示されました。しかしその律法は努力では守りきれるものではありません。だから神は私たちにイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることで救われる道を与えてくださいました。それはアブラハムにおいて約束されていたことだったのです。わたしたちは神さまの愛(イエスキリストの十字架上で示された愛)を知り、その愛に応答して生きようとしたときに、また神さま(聖霊)の働きによって、本来、律法を守れない私たちですが、守れる者へと変えられるのだと思います。努力ではなく、まずは信仰ありき!なのです。
聖書要約
律法によるか、信仰によるか
あなた方はなんと物分りが悪いんでしょう。「私のためにイエスが十字架につけられ、私の罪が赦された」というイエスと自分の関係がはっきり分かっていたはずです。それが分かったのは律法を守ったからではなく、十字架による救いを信じたからではないのですか。信仰の出発点は律法を守ろうと努力することではなく信じることだったのに、もっと強いクリスチャンになるために、律法を守ろうとするのですか。神があなた方に聖霊の力を与えてくださったのは、律法を守ったからではなく、キリストを信じたからではなかったのですか。アブラハムも同じ経験をしました。アブラハムは神の約束を信じることによって、正しい人と認められ、天国に入る資格が与えられたのです。信仰に生きる人は皆(ユダヤ人もそれ以外の人も)アブラハムの子孫です。(天国の資格が与えられている)。それは聖書が前もって言っていたことです。「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」と。神はそうアブラハムに語られたのです。
一方、律法を守ることによって救われようとするものは神に呪われます。なぜなら律法を全て守りきることはできないからです。守らなければ呪いというのが律法の約束ですから。預言者ハバククが「正しい者は信仰によって生きる」と言ったとおりです。
本来なら守らなければならない律法を守れなかった私たちは神から呪われる存在でしたが、キリストは私たちを律法の呪いから解放してくださいました。
律法と約束
アブラハムに約束された「信仰による救い」の約束はその後430年後に律法がモーセに与えられた時にも有効でした。では律法が与えられたのはいったいどういう意味があったのでしょう。それは神のいましめがどのようなものであり、そのいましめを守らないということがどれほど罪深いことかを人々に示す為でした。その有効期限はキリストが来られるまでなのです。モーセに与えられた律法はみ使いを通してでしたが、アブラハムは直接神さまから与えられた約束なのです。
奴隷ではなく神の子である
では律法は神の約束に反するものでしょうか。そうではありません。律法は私たちの罪を自覚させるためのものです。キリストが来られるまで、律法は私たちを監視し、守るためにありました。またやがて来るキリストへと導く養育係の役割があったのです。しかし今や私たちは信仰により、神の子とされたのです。ユダヤ人もそうでない人たちも、奴隷も自由な人も、男も女もみな同じクリスチャン、キリストにおいて一つなのです。アブラハムに与えられた約束を私たちも相続したことになります。