ガラテヤの信徒への手紙5章 愛の実践を伴う信仰

「ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」ガラテヤ5:13

助産師永原のちょっと一言
キリスト者の自由と言うのは何をしてもいいということではなく、愛をもって仕えていくことへの自由です。私たちは、肉の思いで生きているのか、聖霊の導きによって生かているのか、どちらを選択する自由も与えられています。物事を決定したり、選択したりする時に、肉の思いか聖霊の導きかを見極める必要がありますが、その判断基準は、5章の後半に書かれているどちらの実を結ぶのかということを考えることではないかと思います。
キリストから頂いた自由を固く握って、二度と律法でがんじがらめにされた奴隷のようになってはいけません。

聖書要約
キリスト者の自由
もしあなた方が割礼を受けるなら、あなた方にとってキリストは何の役にも立たなくなります。もし割礼を受けなければならないと思っているなら、その他の律法も全て守るべきです。そもそもそのような人はキリストの救いに預かる事はできません。私たちはキリストの死によって罪が取り除かれ、神の前で義と認められるということを聖霊の助けによって確信しています。キリストから永遠の命を頂いた私たちは割礼の有無などまったく問題がありません。私たちに必要なのは愛によって働く信仰だけです。あなた方を惑わした者が全体に悪影響を与えています。そのような人は神の裁きを受けます。惑わす人たちの中には、わたし(パウロ)が割礼を勧めているという人もいるというのです。もしそうならわたしは迫害されずにすんだでしょう。
キリスト者の自由とは愛の実践なのです。律法に反する者ではなく、むしろ律法を完成させるものです。なぜなら律法を要約すれば「隣人を自分のように愛しなさい」ということなのですから。
霊の実と肉の業
わたしが勧めるのは「聖霊の導きに従いなさい」ということです。私たちの生まれながらの性質は聖霊と正反対の悪事を好みます。この霊の導きと肉の思いの板ばさみになって、したいと思うことができないのです。生来の肉の思いは次のような実を結びます。汚れた思い、快楽を求める心、偶像礼拝、魔術、憎しみ、争い、嫉妬、怒り、利己心、不平、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴…。聖霊に導かれて得られる実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。キリストに属する者は生来の欲望を十字架につけてしまったのです。聖霊に導かれてねたみ、いがみあいから解放されましょう。