ヘブル人への手紙4章 恵みの座に近づこう

 「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」ヘブル人への手紙4:16

助産師永原のちょっと一言
3章では神への不信仰は神の安息に入ることをできなくすると書かれていますが、4章では神の安息の地に入ることが希望的に書かれています。神の安息は創造の直後に始まり、今も続いている。「神はみわざを続けている。だからわたしも同じようにするのだ」これはイエスが安息日に人を癒したことによって非難を受けた時にいわれた言葉です。神の国の安息は開かれたまま続いているということです。イエス・キリストは十字架の上で死ぬことによって、死の世界をもその支配下に置かれた後、天にのぼり、休まれたと書かれています。私たちもその安息の地に招かれているのです。その安息の地に入るには、ただ聖書の言葉を、自分に語られた神の言葉として信じることなのです。この信仰生活の歩みをともにしてくださり、助けてくださるイエスは私たちの弱さや、流す涙のわけ、心細さ、悔しさ、痛みをご存知の方だと15節に書かれています。また私たちが神のみ前で弁明する時も私たちの味方になって下さるのです。なんと勇気のでるみ言葉でしょう。この言葉により、今日の一歩を踏み出すことができます。

聖書要約
だれでも神の用意された安息の地に入ることができるという約束は今でも有効です。だから入り損ねる人がいないようにしようではないですか。モーセの時代の人にも、現代の私たちにも福音は知らされています。しかしモーセ率いるイスラエルの民はその言葉を自分のこととして聞かなかった為(信じなかったため)、安息の地に入る事はできませんでした。神の怒りを招いたからです。しかし神は天地創造のとき以来、人々を安息の地に招かれるように準備万端整えて待っておられます。中には入ることが許されている人はいるのですが、不信仰の人は入れないのです。しかし神は新しい機会を与えてくださいました。それが今です。ダビデを通して神は「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない」といわれたとおりです。
モーセの後継者ヨシュアが安息の地に入りましたが、それは私たちに与えられる新しい安息の地とは違います。その新しい安息の地は、神が創造の働きを終えて7日目に休まれた安息であり、イエスキリストも任務を果たして、そこで休まれている所であり、私たちもその安息の地で休めるように最善の努力をするようにと著者は勧めます。とはいえ入れない者がいるかもしれません。なぜなら神の言葉は生きていて切れ味のよい両刃のようなものなので、するどく、私たちの赤裸々な姿をさらけだされてしまいます。全てをご存知の神の前で私たちは弁明しなければならないのですから。
 偉大な大祭司イエス
私たちを救う為に罪人と等しいまでに低くなられ、もろもろの天を通過して、最高位に上られた偉大な大祭司イエスが私たちの味方です。この方への信仰が失われることがないようにしようではありませんか。この大祭司について次のように言います。私たちの弱さを分かってくださる方、罪を犯されなかったという点以外は私たちと同様の試練に遭われた方ですので、その御座に近づき、必要な憐れみ、恵み、助けを頂こうではありませんか。