ヘブル人への手紙5章 大祭司イエス・キリスト

「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、」ヘブル人への手紙5:8

助産師永原のちょっと一言
5章ではまずユダヤの大祭司について述べられています。その大祭司の資格は2つあります。一つは民を思いやれる人である事。もう一つは神から任命されるということです。6節のメルキゼデクは旧約聖書創世記14:18に「いと高き神の祭司」としてメルキゼデクの名が出てきます。また詩篇110:4はイエスキリストを指す言葉として使われています。大祭司の話は7章に続きます。
ゲッセマネの祈りは「父よ、御心なら、このにがい杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」です。にがい杯は十字架を指すわけですので、祈りによって十字架が取り除かれたわけではなく、「御心がなるように」と言う点において祈りは聞かれたのです。そしてこの十字架があったからこそ人類の救いのご計画は達成したのです。わたし達も願うことを祈りますが、「御心ならば…」ということを必ず祈りに加えます。ですから苦しいことや、逃げ出したいようなことも御心ならば受けなければならないときがあるのかもしれません。しかし見方を変えればどんなに苦しいことでも、それが御心の中の出来事ならば耐えることができるように思います。

聖書要約
大祭司は人々の罪が取り除かれる為に神にいけにを奉げます。大祭司は人ですので、自分自身弱さをもっており、民を思いやることができます。大祭司は神から任命されなければなることはできません。アロンはモーセの兄で、出エジプトにおいて神から任命を受けました。アロンの子孫が大祭司を世襲することも神の任命によるものです。
同様に私たちの大祭司であるイエス・キリストも2つの資格を有しています。一つは大祭司となる名誉を神から与えられたということ。旧約聖書のいと高き神の祭司として書かれているメルキゼデク同様、永遠の大祭司なのです。また民を思いやることの出来る方です。キリストはゲッセマネの祈りにおいて、叫びと涙の祈りをささげて聞き入れられました。イエスは御子でありながら、神に従う事は多くの苦しみを経験することによって従順を学ばれました。このことを通して、完全な者となられてので、御自分に従う全ての人に対して、永遠の救いの源となられたのです。
一人前のキリスト者の生活
まだまだ話し足りませんが、あなた方は聞こうとしないので話すことができません。あなた方は信仰的には赤ん坊のようなクリスチャンです。赤ん坊が固い食べ物を食べることが出来ないように聖書の難しいことを言っても理解できないでしょう。聖書の教えに熱心に聴き従おうとする心を持つものだけが初歩の段階から進めるのです。