ヘブル人への手紙7章 大祭司、キリスト・イエス

 「…ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」ヘブル人への手紙7:25

助産師永原のちょっと一言
難解な章が続きます。クリスチャンの信仰がユダヤ教の考えでゆがめられていることに対して、ユダヤ教とキリスト教の相違を示そうとして書かれています。
まず、キリストはユダヤ教より優れていることを示すために、ユダヤの歴史やしきたり、すなわちアブラハムとメルキゼデク、またレビとの関係などを例に出しながら論法を進めています。当時の手紙の受取人であるユダヤの人たちにはそれらのことは大切なことであり、説得力のあることだったのでしょう。メルキゼデクは創世記に出てくる大祭司であり、イエス・キリストの予表というべき存在です。それらのことはユダヤのしきたりなどを知らない私たちにも大切なメッセージとして読み取ることができます。たとえば、ユダヤなら、かつては動物を奉げて罪の許しを請い、神に近づこうとしました。日本ではさしずめ、お題目を毎日唱えたり、修行をしたり、仏壇にお線香やお茶を欠かさないことで、先祖を弔ったりということでしょうか。しかしそのような事は必要がないということなのです。イエスが十字架にかかられ、復活されたことを信じることによって救われるという新しい神の誓いが私たちに与えられているのです。不完全だった古い救いの約束が、完全な救いの約束となったのです。古い約束にしがみついている理由は何もないのです。

聖書要約
メルキゼデクの祭司職
メルキゼデクはサレム(平和の意)の王で、神の祭司であり、「いと高き神の祭司」また「正義の王」「平和の王」と言われ、系図もなく父母もなく神に似た永遠の大祭司なのです。メルキゼデクは戦いに勝利して凱旋したアブラハムを出迎え、祝福し、アブラハムは全ての物の10分の1をメルキゼデクに奉げたのです。律法ではモーセの兄アロンの子孫、レビ族が代々祭司職を継ぎ、民から10分の1の奉げ物を受けるとなっています。しかしメルキゼデクはレビ族でないのに、奉げものを受け取とる立場だったのです。またアブラハムはアロンの先祖なので、アブラハムがメルキゼデクに奉げたということは、祭司であるアブラハムの子孫であるレビ自身がメルキゼデクに奉げたということになります。ということはメルキゼデクはレビ族より偉大だということです。
もしレビ族が祭司として人々を救う力があるのなら、なぜレビ族からでなく、メルキゼデクと同じような、レビ族以外の祭司が立てられる必要があったのでしょうか。キリストはレビ族ではなくユダ族から出られたことはイエス誕生の経緯を見れば分かります。キリストは律法のレビ族とは関係なく、命の力(神の力)によって立てられたのです。それは詩篇の記者が「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」と証言していますと。律法は人を救うことが出来ず、民と神との関係を結ぶ事はできませんでした。しかし今、キリストの十字架の死によって私たちは正しい者とされ、神に近づくことができるのです。キリストはレビの系図の祭司とは違い、神の誓いによって祭司とされたのです。「あなたこそ永遠に祭司である」と神が言われたのです。
レビは人間なので死ぬのでいつまでも祭司を続ける事はできません。しかしイエスは永遠に生きて、全ての民を救うことがおできになります。また罪のないお方なので、レビの祭司のように、まず自分の罪を取り除くために奉げ物をし、次に民の罪のための奉げ物を毎日するというようなこともする必要がなく、たった一度ご自分を奉げることで罪からの救いを成し遂げたのです。律法の後に神が与えてくださった誓いは、完全な神の子が永遠的に私たちの罪を取り除き、神との和解をとりなる祭司職に任命することだったのです。