ヘブル人への手紙10章 完全なる贖罪

「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」ヘブル人への手紙10:10

助産師永原のちょっと一言
祭司が民の贖罪のために幕屋で奉仕することが、無力で不完全であるのに対して、キリストの自己犠牲による贖罪の完全性が書かれています。そのただ一回の自己犠牲で、律法の制度を終了させたのです。「信仰義認」という言葉がありますが、それは主の大いなる哀れみに他ありません。その意味は、クリスチャンは「キリストの十字架の死と復活」によって、罪が赦され、救われ、永遠の命を賜ったと信じる者ですが、かと言ってクリスチャンが罪を犯さない人間なのかと言うと、悲しいかなそうではないのです。罪人には変わりありません。ただ、十字架と復活を信じる「信仰」によって「義人」と認めてもらったのです。「傷ついたそのままのあなたでいい、わたしのもとに来なさい」この主の言葉がわたしの人生の分岐点にありますが、主の招きに対して、罪人のまま、主の前にひれ伏し、主にすべてを委ねる時に主は私たちを義と認めてくださり、永遠のいのちを下さるのです。

聖書要約
ユダヤ人に与えられた律法は、やがてキリストが与えてくださるこものの素晴らしさをぼんやりと表すに過ぎません。律法は年毎に何度もいけにえを奉げますが、決して人々は救えないのです。もし救えたなら、罪の記憶も消すことができたでしょう。そして何度も奉げる必要はありません。だから、キリストが来られた時に、律法で定められたいけにえを、神は満足されないと語られ、「私は命を捨てるために来たのです」とおっしゃったのです。キリストは第2のさらにすばらしいものを打ち立てるために最初の制度を廃止されたのです。すなわち、ただ一度イエスの体がささげられることで、私たちは聖なるものとされたのです。イエスキリストはその身をささげた後、永遠に神の右につかれ、敵が足の下に踏みつけられる日を待っておられます。聖霊も次のように証言されます。「私が新たに、彼らと結ぼうとしている約束は次のことです。神の意志である、神の掟(福音)を彼らの心に書き記したこと。そして彼らの罪を二度と思い出さないということです。」罪が赦された以上、罪を贖う必要はなくなったのです。
奨励と勧告
ですから、みなさん、わたしたちはイエスの血によって神のおられる至聖所に入ることができるのです。聖所と至聖所を隔てる垂れ幕はイエスの十字架の血潮によって取り去られたのです。その偉大な祭司イエスが神の家を支配されているのですがから、絶対に神に受け入れられると確信して、真心をもって神に近づきましょう。私たちはイエスの血によって清められたのです。私たちは神さまが約束してくださった救いへの希望をしっかり抱きましょう。約束してくださった神は真実なお方ですから、希望を持ち、愛と善行に励み、励ましあって礼拝を守りましょう。神の愛を知りながら、背を向け続けるのであれば、どんなことをもってしても赦される事はありません。モーセの律法も2,3人の証言があれば容赦なく死刑に処されるのです。ましてや神の救いに与かりながらの背信行為は思い刑罰が課せられます。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われます。主の手に陥るとはなんという恐ろしいこと。初めてキリストを知った時のように祝福の素晴らしい日々を忘れないようにしなさい。どんな苦しみにも耐えられたのはもっとすばらしいものを必ず獲得できるということを確信していたからです。
信仰を捨ててはいけません。忍耐して信仰を続けなさい。その報いは大きいのです。信仰によって神の前に正しいと認められた者は、どんなことをしても主を信じて信仰によっていきなけらばなりません。神に背を向けて滅んでいく者ではなく、主を信じる信仰が命の救いを確実にしてくれます。