エゼキエル書33章 それぞれの道によって
「イスラエルの家よ。わたしはあなたがたを、それぞれの生き方にしたがってさばく。」エゼキエル書33:20
くぅ~ママのちょっと一言
この33章からエゼキエルの第3部にはいります。エゼキエルは妻の死後6カ月ほど物が言えなかったのですが、エルサレム陥落の知らせがやってきた時、口が開かれます。そしてここからイスラエルの回復の預言が始まります。主はエゼキエルを見張りとして、主の言葉を語るように命じます。この同じ召命の言葉が3章でも語られています。民はエゼキエルに主の言葉を聞きに来ますが、それは自分たちの利益のためでした。主は民が口先だけではなく、心から主に立ち返ることを望んでおられたのです。それは心から悪から離れたいと願う心、砕かれた魂、主への真実な信仰を持つことだったのでしょう。
聖書要約
見張りの務め
主がお語りになりました。「人の子よ、私がある国を攻める時、その国に一人の見張りを立てて来襲の警報を鳴らさせる。もし警報を聞いて従わないのであれば、非は彼にある。もし見張りが警報を鳴らさないのであれば、民はその罪ために死ぬが、その死の責任は見張りにある。私はその責任を見張りに問うことになる。人の子よ、私があなたをイスラエルの見張りとする。私が『悪人は死ぬ』と言う時、あなたがそれを伝えなければ、民はその罪のために死ぬが、その死の責任をあなたに問う。あなたが伝えたのに、彼らが聞かなければ、責任はあなたにはない。人の子よ、イスラエルの民は『私たちは思い罪を犯した。どうして生きておれよう』と口先で言う。私は生きている。悪人が滅びるのを喜ぶはずがない。悪人が立ち返るのを願っている。イスラエルよ、本当に悪から離れなさい。滅びてはいけない。正しい人であっても罪を犯すなら救われないし、悪人でも悔い改めるなら滅びない。それをイスラエルの民は『神は公平でない』という。しかし問題はそう言っている民が正しくないことだ。」
私たちが捕囚となって12年目のこと。エルサレムから逃れた者が私の所にやってきて「エルサレムが陥落した」と言いました。私はその前夜、主のみ手によって元気を回復されていたので、彼らに再び語ることが出来た。その時主がお語りになりました。「人の子よ、廃墟となったエルサレムに住んでいる民たちが『アブラハムは一人でこの全地を所有した。これだけ大勢の者がいるのだからこの地を取り戻せないはずはない』と言っているが、不信仰な行動をしているあなたたちがこの地を所有できるはずがない。彼らは必ず滅ぼされる。その傲慢な考えにとどめをさす。彼らは都合よく、如何にも私を愛しているかのように言うが、預言者の言葉を聞くのを楽しんでいるだけで、心で受け止めない。だが先に語ったことが実際に起こる時、主から預言者が与えられていたことを知るでしょう。