マラキ書1章 主へのささげ物


「…損のあるものを主に献げるような、ずるい者はのろわれる。」マラキ書1:14

くぅ~ママのちょっと一言
捕囚から帰還して100年、神殿の再建から80年を経たころに預言者として使わされたのがマラキです。民は主への感謝が薄れ、礼拝は形式主義に陥り、律法軽視の雰囲気が漂っていた頃に、主の言葉を民に伝えます。神がイスラエルを愛しているにもかかわらず、民の不誠実、特に祭司の不実が取りざたされます。(ヤコブとエソウについては創世記25章を参照のこと)信仰は形式でもなく、義務でもなく、主から頂いた恵みの大きさを思う時に感謝してもしきれない気持ちで礼拝に集い、全ては主の恵みによって頂いたものなのですから、その中から感謝をこめて主にお捧げするのが本来のあり方でしょう。

聖書要約
マラキが主から託されたイスラエルへの言葉
グッドイスラエルとエドム
「私はあなたを愛した」と、主は言われます。しかしあなたたちは言う。「どんなに私たちを愛してくださったのですか」と。「私はあなた方の始祖、ヤコブを愛した。理由はない。ヤコブの兄のエソウは退け、相続の地は廃墟となっている。もし子孫が再建しようとしても私が破壊する。悪の地、神に見放された民と呼ばれる。イスラエルの民よ、自分の目で確かめて言いなさい『主の力はイスラエルの国境を越えて全地に及ぶ』と」
グッド正しい礼拝
「子は父を敬うものだ。しかしあなた方は父なる神である私を少しも敬っていない。祭司に至っては私の名をさげすんでいる。」と主は言われる。あなた方は「私たちがいつ神様をさげすんだのです」と言う。主の答えは「祭壇に汚れたいけにえを捧げる時だ」とお答えになる。「あなた方は高価なものを祭壇に捧げる必要はないと言って、足の悪い動物や病気の動物を捧げる。総督にそんな贈り物をして喜んでもらえるか試してみるがいい。今、神が恵みを与えることが出来るように赦しを願ったとしても神がそれを受け入れてくださるだろうか。『こんな捧げものは受け取らない』と、戸を閉ざす祭司が一人でもいたらいいのだが。私は汚れた捧げものなど受け取りたくもない。」
全世界の国々の民が主の名を崇め、香が炊かれ、清い捧げ物が捧げられている。それなのにあなたたちは主の祭壇を汚している。捧げ物のことを軽く見たり、煩わしいことと思っている。傷のない雄の動物を捧げると言いながら傷のあるものを主に捧げる者は呪われる。完全な主権者である主は、主の民であるあなた方が主を拒否するのであれば、主は他の諸国の民に祝福をお与えになるであろう。そして彼らは主を畏れるであろう。