マタイによる福音書17章 一粒のからし種


「もし、からし種ほどの信仰があるなら、…」マタイ17:20

くぅ~ママのちょっと一言
ペテロとヤコブとヨハネはイエスの山上での変貌というすばらしい経験をします。
「このことを言ってはならない」とおっしゃったのは、頑な宗教家達にはおそらく通じないだろうと言うことと、メシアの到来ということで民衆が混乱することを避けられたのかもしれません。実際イエスが十字架に架かられる前の100年間にメシア到来と言ううわさにより革命や反乱が起り20万人以上のユダヤ人が命を落としているとのことです。
からし種の信仰の所ですが、からし種とは当時、最も小さいものを表す言葉でした。また「山を移す」と言うのは当時のユダヤ人の慣用句で、「困難を解決する」という意味で使われた言葉だそうです。「どんな小さな信仰でも、神様を信じるその信仰があれば、困難を解決することが出来る」のです。
神を疑うことは簡単なことです。私たちを神から遠ざけようとする材料は事欠きません。だからこそ私は神を信じ、イエスの十字架の死と復活を信じ抜いて生きていきたい。そう願う者に主なる神は信仰の心をかならず与えてくださいますから。

聖書要約
イエスの姿が変る
ペテロとヨハネとヤコブを連れて登られた山の上で、イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。そこにモーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていたのです。それを見たペテロが「自分がこの場にいるのは素晴らしいことです。わたしはあなたたちのために3つ小屋を建てましょう」と言っている間に、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」と声がしました。弟子たちは怯えてひれ伏しましたが、イエスが彼らに触れて「怖がることはありません」とおっしゃいました。彼らが顔をあげると、イエスの他にはだれもいませんでした。イエスはこのことを口止めされました。山を降りながら弟子が尋ねました。「どうしてユダヤの指導者たちは『メシア(救い主)が来る前にエリヤが来る』と言うのでしょう」と。イエスはお答えになりました。「エリヤは来ました。人々は彼を認めず、ひどい目に遭わせました。メシアの私も彼らの手で苦しめられるのです」と。弟子たちはバプテスマのヨハネのことを言っていることを悟りました。
悪霊に取りつかれた子をいやす
一同は群衆の所に降りてくるとある人が「悪霊に取りつかれたひどい状態の子どもをいやしてほしい。お弟子たちは治すことができませんでした」とやってきました。イエスは悪霊を追い出し、その場で子どもは治りました。後で弟子たちがなぜ自分たちに悪霊を追いだせなかったのか聞くと、「信仰が足りないからです。からし種ほどの信仰があれば山にむかって動けと言えば動きます」と答えられました。
再び自分の死と復活を予告する
一行がガリラヤに集まった時イエスは再び自分が殺され、3日目に復活することを告げられました弟子たちは悲しみでいっぱいになりました。
神殿の税を納める
一行がカファルナウムに来た時「なぜあなた方の先生は神殿税を納めないのか」と取り立て人が尋ねてきました。イエスはこうお答えになりました。「世の王たちはわが子から税金を取らない。神の子であるわたしも神殿の税金は納める必要はない。しかし役人を怒らせないために。」そして「湖でつりをして、最初にかかった魚の口の中にあるお金を払うように」と。