ヨハネによる福音書1章 まことの光


「すべての人を照らすそのまことのが、世に来ようとしていた。」ヨハネ1:9

くぅ~ママのちょっと一言
いよいよ4つ目の福音書です。このヨハネの福音書の目的は「…イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、またあなたがたが信じて、イエスの名によっていのちを得るため」です。
37節でバプテスマのヨハネの弟子がイエスに従っていく箇所がありますが、自分の弟子が去って行くのは寂しいことです。人は自分の利益を求めたり、自分中心の物の見方をしてしまいますから。しかし相手の利益になることを優先して考えたり、神の利益になることを優先させて考える生き方ができればどんなにすばらしいかと思います。神さまのもっておられる計画が完成するために、私が何をすればいいのかを考えてその役割だけを果たすことに集中して生きていきたいと思います。それはある面、とても気楽な生き方です。自分で完結させようと思わなくていいのですから。神様から頂いた今日一日を、神さまの心を求めながら生きていくことだけに集中すればいいのですから。

聖書要約
言葉が肉となった
神が天地創造のわざが開始された時に「ことば」(=イエスキリスト)は神と共におられ、すべてはキリストがお造りになりました。キリストの内に永遠の命があり、全人類を照らす光となってこの世に来られ、暗闇のようなこの世の中で輝いておられます。神はイエス・キリストこそ本当の光であるあることを証言させるために、バプテスマのヨハネをお遣わしになりました。ことば(イエス)はこの世を照らし、イエスの名前を信じた人は「神の子」となる資格を与えられました。しかし人々はイエスを認めませんでした。律法はモーセを通して与えられましたが、愛と赦しはイエス キリストを通してもたされました。実際に神を見たものは神と共におられる御子イエスお一人で、神のことを私たちに示されるのです。
洗礼者ヨハネの証し
祭司長やレビ人がヨハネに「あなたはメシアなのか、預言者なのか」と尋ねました。ヨハネはそれらを否定し、自分はメシアが来れる準備をするに過ぎないと言い、後からイエスが来られることを証ししました。
神の小羊
翌日、ヨハネはイエスを「…罪を取り除く神の小羊」と人々に紹介します。(「罪を取り除く小羊」の意味は旧約聖書の出エジプトの「過越し」の記事が由来)そして「この方が神の子である」と証言します。神がヨハネに告げられていたように、イエスに聖霊が下り、その上に留まるのを見たのです。
最初の弟子たち
翌日、ヨハネの弟子のアンデレともう一人の弟子はヨハネの元を離れ、イエスについて行きました。アンデレは兄弟のシモンに「メシアに会った」と教え、イエスの所に連れて来ました。イエスはシモンにペテロ(岩)と呼ぶことにすると言われました。
フィリポとナタナエル、弟子となる
その翌日、イエスはフィリポは出会って、「わたしに従いなさい」と言われます。フィリポはナタナエルに「律法にしるされ、預言者たちが書いている方にであった。その方はナザレのイエスだ」と言いました。するとナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったのですが、フィリポはナタナエルをイエスの所に連れて来ます。ナタナエルはイエスに心や行動を見抜かれ、イエスに従うようになります。イエスはナタナエルに「もっと大きなことを見ることになります」と約束されました。