ローマ人への手紙14章 わたしもあなたも主のものです
「生きるにしても、死ぬにしてですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」ローマ14:8
くぅ~ママのちょっと一言
14章は教会員同士の問題について述べています。「強い人は弱い人を裁いてはいけない」とパウロは言います。理由は弱い人も強い人も神は受け入れた神のしもべであり、お互いに裁く立場にはないのです。また食べる人んも食べない人、どちらも主に喜んでいただこうという思いは同じなのです。もし間違っていたら、神がそのことをその人に教えて下さるので、私たちが批判しあってはいけないのです。どちらにしても主に喜んでいただこうと生きている私たちクリスチャンの命は主に握られています。クリスチャンは主に目を注ぎ、主の声を聞き、主に向って生きていく存在です。それは生きている間も、死んだ後も連続しています。マザーテレサのことばを思い出します。「私は神さまに握られた一本のえんぴつにすぎない。」と。主のみこころのとおりに遣わされ、主の手に握られた鉛筆のごとく描いていただくことがクリスチャンの生きる目的です。この世で主に仕えることも、天国で主に仕えることもクリスチャンにとったら大きな違いはないのです。
聖書要約
兄弟を裁いてはならない
信仰の弱い人(律法で定められた禁欲的な生活にこだわっている人)を批判してはいけません。何を食べてもいいと信じている人もいますが、「祭壇に供えられた肉を食べてはいけない」と野菜しか食べない人もいるのです。食べる人は食べない人を裁いてはいけません。主はどちらも子どもとして受け入れてくださいました。主の子どもを勝手に裁くことはできません。正しいか間違っているかは主がその人に教えてくださいます。またある人は「ユダヤ教の祝祭日を守るべきだ」と考えています。しかし他の人はどの日も皆同様に神のものだから、こだわらなくてもいいと考えています。食べる者も食べない者も、特定の日にこだわる人もこだわらない人も、主に喜んでいただこうと切に願うからそうしているのです。具体的な判断は異なっても、私たちクリスチャンは自分のために生きているのではなく、主のために(主に向って)生きているのです。私たちの主権者は主なる神なのだから。私たちは兄弟(クリスチャン同士)裁く資格などありません。なぜなら、私たち一人ひとりが主の前に立たされ、裁きの座につくのです。批判しあってはいけません。聖書に「主は生きておられる。全ての人は主の前にひざまづいて、どう生きてきたかを告白しなければなりません」と書いてあります。
兄弟を罪に誘ってはいけません
ですからお互いの思いや生き方を尊重しあい、批判しあってはいけません。兄弟をつまずかせないように気をつけなさい。偶像に備えた肉を食べることは悪いことではありません。しかし悪いと思っているなら、主に後ろめたい心を持って食べるのはいけないことです。また、食べてはいけないと思っている人の前で、ことさら食べる事はないでしょうし、自分の行為は正しいと思っても批判の的になったり、人の心を痛めさせるようなことになるのなら慎むのが愛です。クリスチャンにとって大切なことは、何を食べるか、何を飲むかではなく、聖霊からくる義と平和と喜びなのです。このように神にも人々にも喜ばれることが大切です。教会内の調和を目指し、互いに助け合って成長するように努めなさい。些細な肉の問題などでいさかいを起こさず、クリスチャン同士一致して主のために働こうではないですか。神さまがご覧になっても潔白だと思うようなことでも、人のつまづきになる事はしてはいけません。またもし自分のしていることが悪いことかも知れないと思うようであればしてはいけません。悪と思うことをする事は主から目を伏せることであり、それは罪になるのです。